カーニバル2002−2003
ことしのばうむくーへんのカーニバルのテーマは”デュッセルドルフとベルク公国”

Die Stadt Dusseldorf ist sehr schon, und wenn man in der Ferne an sie denkt, und zufallig dort geboren ist, wird einem wunderlich zu Muthe. Ich bin dort geboren und es ist mir, als musste ich gleich nach Hause gehen." (Heinrich Heine)

都市デュッセルドルフはとても美しい、そして、遠いところでデュッセルドルフを思う人が、たまたまそこで生まれたのであれば、何やら不思議な気持ちになってくる。私はあそこで生まれた。そして、今すぐ家に帰らなければいけないような気がするのだ。(ハインリヒ・ハイネ)
2003年のローゼンモンタークは3月3日だよ♪


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・・・デュッセルドルフはベルク公国の首都・・・

”デュッセルドルフのカーニバルでは、年毎にモットー(標語)が定められ、
それは当地の方言で表現される。
デュッセルドルフ地域の方言は、とてもきつい。”

最近、デュッセルドルフはベルク公国の首都であることを知り、
がぜん「デュッセルドルフとベルク公国」についてさらに深く知りたくなりました。

さて、まず、ベルクの要点を。
☆ベルク地方とは、デュッセルドルフ周辺の、ライン川の東側地域であり、
ベルク公という地方豪族の領地であった。
☆ヤン・ヴェレムの時代には、プファルツ選帝侯がベルク公の肩書きを持っていた。
☆ナポレオン占領時代、ベルク地方は
ナポレオンの義弟を大公にいただくベルク大公国の一部となり、
デュッセルドルフが首都となった。
☆ウィーン条約以後は、ライン沿岸地方はプロイセンの支配下になった。





・・・ベルギッシェス・ラントBergischesland・・・

デュッセルドルフ近郊に
「ベルギッシェス・ラント」と呼ばれる地域があることは
何となく知っていましたが、
単に「山がちな土地」という意味だと思っていましたが、違いました。
かつてベルク公国の版図であった地域を指すのでした。
しかし、
ベルク地方、ゾーリンゲンにあるブルク城は ずばり山の上にあり、
周辺はハイキングコースになっていますので、
山に全く関係がないわけでもないかも知れない…
アドルフ・フォン・ベルク(1045-1106)をAdolfus de Monteとも書きますし…

ベルク地方がドイツのどこにあるか、わかるでしょうか?
ライン川から分かれて東に流れるルーア川沿岸地域がマルク伯領であり、
その南に位置するのがベルクです。ライン川の対岸はケルン選帝侯国。


・・・初期のデュッセルドルフ・・・

デュッセルドルフが歴史的記録に登場するのは、やっと1135年で、
Düsseldorpと記されています。
当時はライン河畔の小さな漁村だったそうです。
1288年、都市の権利を獲得しましたが、
デュッセルドルフに都市の権利を与えたのは
ベルク伯でした。

その頃、ヴォリンゲンの戦いといって、
ケルン大司教ジークフリート・フォン・ヴェステルブルクと
ベルク伯アドルフが争っていたのですが
勝利したのはベルク伯。
デュッセルドルフの町はベルク側についたので、
感謝の印として、都市の権利を与えられたのです。
現在のガイドブック等では、
ケルン人はケルシュ・ビールをこよなく愛し、
デュッセルドルフのアルト・ビールを「泥水のようだ」とけなす、と
書いてあるのを散見しますが、
その因縁はこの戦いにあったのかも知れないと想像してしまいます。
何しろ、捕らえられたケルン大司教は、
13ヶ月にわたって、
ブルク城の地下牢に押し込められてしまったのですから。
ウォリンゲンの戦い


・・・ベルク伯とブルク城・・・

ゾーリンゲンのお山の上にあるブルク城は、
記録によれば、築城が1133年、
これを手がけたアドルフ1世の家系は、1225年貴族の反乱によって絶えてしまい、
以後、リンブルク家がベルク伯となって
リンブルク家の、「2本の尾がある獅子」が紋章の動物になります。
これは、現在のデュッセルドルフの市章にも見ることができます。

1380年、ベルク伯領は公国(Herzogtum)に格上げされますが
この頃には、
戦争の技術の発達により、
ブルク城のような山城は無力化してしまいました。
そのため、ベルク伯はデュッセルドルフに居城を建設し、
ブルク城は狩猟の館、儀礼のための城として使用されるようになります。
ブルク城ホームページ

・・・ベルク公国・・・

1510年、公国同士の婚姻により、
ユーリヒ・クレーヴェ・ベルク公国が誕生し、
デュッセルドルフはその首都に定められました。
婚約、結婚式はブルク城で行われ、
1496年の婚約当時、新郎新婦はほんの子供で、
マリア・フォン・ユーリヒ‐ベルクは5歳、
ヨハン・フォン・クレーヴェ‐マルクは6歳でした。
(クレーヴェは、オランダにほど近いライン河畔の町です。)
しかし、1609年、
後継者が途絶えたベルク公国に相続争いが起こり、
折りしも「新教同盟ウニオン」と「旧教連盟リガ」の対立に巻き込まれ
フランスとイギリスの仲介のもとにベルク公国は分割され、
プロテスタントの多かったクレーヴェ‐マルクをブランデンブルクが、
(ブランデンブルク選帝侯国=後のプロイセン)
カトリックの多かったユーリヒ‐ベルクをプファルツ・ノイブルクが継承することになりました。

Mark伯領は、現在もノルトライン・ヴェストファーレン州マルク郡(Märkischer Kreis)として名を残しています。
Mark伯家は1160年にBerg伯家より分離しました。1398年、マルクはクレーヴェに併合されました。
ナポレオンによるベルク大公国編入を経て、プロイセン支配のもとヴェストファーレン地域の一部になります。


Jülichという町は、デュッセルドルフからアウトバーン44号で南西へ、アーヘンに行く途中にあります。
小さいながらもローマ時代の城塞が残る古都ですので、近郊にお住まいの方はぜひお出かけください。
Stadt Jülichのホームページ:トップページ左下のユーリヒの歴史コーナーなぞどうぞ

そして1614年以後、 デュッセルドルフは
プファルツ選帝侯ノイブルク伯家の居城地(レジデンツ)となります。
ベルクの本拠地であったブルク城は、30年戦争(1618-1648)の後破壊され、
廃墟となってしまいましたが、
郷土の人たちの手によって再建されました。

・・・ヤン・ヴェレム(b1658-d1716)・・・

デュッセルドルフ旧市街の広場にあるヤン・ヴェレム騎馬像は
デュッセルドルフのシンボルです。

ヤン・ヴェレムの名で親しまれた
デュッセルドルフの殿様、ヨハン・ヴィルヘルムの家、
プファルツ選帝侯ノイブルク伯家というのは、
バイエルンのヴィッテルスバッハ家の傍流にあたります。
プファルツ選帝侯国はもとはハイデルベルクに首都を定めていましたが
ヴォルフガング・ヴィルヘルム公(1578-1653)の時代に宮廷をデュッセルドルフに移しました。

ドイツの選挙王制は、 古ゲルマンの慣習に基づくものとされます。
国王を選出する権利を持つのが”選帝侯”です。1356年、7選帝侯制度が確立しました。
一方、地方豪族は領地と地位を世襲します。

選帝侯を継承したヤン・ヴェレムはデュッセルドルフの暮らしを愛し、
ここで生まれ、そして亡くなったのですが、
彼の時代に、デュッセルドルフは欧州有数の文化都市として繁栄しました。

30年戦争の結果、プファルツは、深刻な被害を被り、
人口の50%以上が減少してしまいました。
さらにプファルツ継承戦争(1688‐97)により、
プファルツの首都ハイデルベルクは完全に破壊されました。
しかし、デュッセルドルフを含むライン地方の被害はそれほど深刻ではありませんでした。

ノイブルク家出身のプファルツ選帝侯には、
ヤン・ヴェレムの父フィリップ・ヴィルヘルム(選帝侯在位1685-90)
ヤン・ヴェレムことヨハン・ヴィルヘルム(在位1690-1716)
ヤン・ヴェレムの弟カール3世フィリップ(在位1716-1742)の3人がいます。
選帝侯とは、領邦国家の事実上の国王であり、
その格式の高さは、
ヤン・ヴェレムの最初の妻が
神聖ローマ皇帝の娘
マリア・アンナ・ヨゼファ・フォン・ハプスブルクであり、
2度目の妻が、
フィレンツェの名家、トスカーナ大公メディチ家の出身である
アンナ・マリア・ルートヴィカであることからも
想像できると思います。
さらにはヤン・ヴェレムの姉妹の結婚相手が
神聖ローマ皇帝、スペイン国王、ポーランド国王の息子など、
何とも華やかなこと。
こんなかつらをかぶってたんじゃ、誰が誰でも変わりばえしないとは思わないのかな〜
子供には恵まれませんでしたが
当時ヨーロッパ最大の芸術のパトロンであった
メディチ家の姫君である妻の 影響もあって、
ヤン・ヴェレムはオランダ、イタリア、フランス等の多くの絵画を収集し、
彼の宮廷にはすぐれた音楽家、画家、建築家が集い
1710年にはドイツではじめての美術館を開くなど、
デュッセルドルフはバロック芸術の都となりました。

しかしながら、ヤン・ヴェレム亡き後、
後継者である彼の弟カール・フィリップ選帝侯は
宮廷をハイデルベルク次いでマンハイムに移してしまいました。
ヤン・ヴェレムの妻のアンナ・マリアは、 夫の死後、実家のあるフィレンツェへ帰りましたが、
大公家の後継である兄弟が子のないまま死んだため、
晩年、メディチ家最後の相続人となり、
トスカナ大公というタイトルが
メディチ家からロートリンゲン公(オーストリアの女帝マリア・テレジアの夫)に継承されるのを
見届けることとなります。

プファルツ‐ノイブルク家はカール・フィリップで断絶し、
プファルツ‐ズルツバッハ家のカール・テオドール公が
ベルクを含むプファルツ領を継承しました。
彼は、デュッセルドルフ南郊に、1755〜73年に狩猟と娯楽のための離宮ベンラート城を建設しました。


カール・フィリップ公とカール・テオドール公の時代である1720年〜78年
プファルツ選帝侯の居城地となったマンハイムですが、
ヤン・ヴェレムの時代の1698年に新しく城塞、市街が建設され、現在のマンハイム旧市街になっています。

また、1777年バイエルン選帝侯の家系が絶えたため、
プファルツ選帝侯であるカール・テオドール公がバイエルン選帝侯を継承し
その結果プファルツはバイエルンに併合されます。


・・・ナポレオン占領時代〜現代・・・

フランス革命後、デュッセルドルフはナポレオンのフランス軍に占領されました。
1806年、ナポレオンによりベルクは大公国として
ナポレオンの義弟ミュラ将軍に与えられ
デュッセルドルフはベルク大公国の首都に定められました。
ナポレオン支配下の地域は大胆に改革され、
ツンフト規制は廃止、営業の自由が認められ、
ルーア川流域地方の後の発展の基礎となりました。
ナポレオンのロシア遠征失敗の後、
1815年のウィーン会議により、
デュッセルドルフを含むラインラントはプロイセンの支配下になります。
東西に完全に分断された領域を持つことになったプロイセンは、
関税同盟により、商品の流通がなめらかになるよう図り、
後にドイツ関税同盟によって諸邦国間の関税が撤廃されます。
さらに、産業革命を経てラインラントの工業・経済は発展を続け、
第2次大戦後
1946年にデュッセルドルフはノルトライン‐ヴェストファーレン州の首都となり、
ルール工業地帯の事務机と呼ばれるようになりました。


・・・・・

カタカナが多くて読みづらいですが、読んで下さってありがとうございました。
きっとどこかおかしなところがあると思うので、気がついた人は教えて下さいね(^^)/


資料について

  ☆デュッセルドルフの絵葉書 
絵葉書に書いてあるデュッセルドルフ小史を手がかりにして
web検索を進めていったのです
これがなければ最初の一歩も踏み出せなかった

☆「ラインの流れ」デュッセルドルフ日本人会編
特に、ブルク城の項は詳しく、大変参考になりました。

☆シリーズ「西洋の音楽と社会」3・4・5・6 音楽之友社
バロック時代と初期古典派に該当する巻を参考にしました。
ドイツ史関係の書籍では洩れてしまう、諸都市の宮廷の様子が詳しくわかります。

Neue Düsseldorfer Hofmusikホームページ(ドイツ語)

Thomas Hockmannホームページ(ドイツ語)
NRW州の地方史関連の記事が充実。歴史地図が面白いです。



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- De Zoch kütt! -


"Läwe on läwe losse"(Leben und Leben lassen)
今年のデュッセルドルフのカーニバルのモットー(標語)です。

"Kamelle!"
”らくだ”ではありません。学習用独和辞典には載っていませんでした。
ローゼンモンタークのパレードで、
トラクターが牽く飾りつけた台車の上から 雨あられとばらまかれる
キャンディ、チョコ、グミ等々のお菓子のこと、
またはお菓子を求める掛け声です。
Karamell(カラメル:専門用語でボンボンHartkaramellenのこと)が語源とも考えられています。
カーニバルの観客は、開いた傘を上下さかさにして頭の上にかざし、
ひとつでも多くのお菓子を受け取ろうと待ち構えているのです。

"Die Möhnen"
これも学習用辞書には見当たりませんでした。
カーニバルの馬鹿騒ぎの始まりは、
木曜日の女のカーニバルAltweiberfastnachtです。
仮装をして出勤した女性たちが、11時11分にやおら鋏を取り出して
男性のネクタイをちょっきんと切り落としてしまいます。
この時間、旧市街の市庁舎前には女性の集団が待ち構えていて
11時11分になると、市庁舎に押し込み、
市長のネクタイを切って、街の鍵(もちろんハリボテ)を渡され、
この日、デュッセルドルフを女性が支配することを宣言します。
この女性たちがDie Möhnenです。

"Tuntenlauf"

Tunteは辞書で発見しました。おばさんとかホモとか。
カーニバルの土曜日、街一番の高級ショッピング街ケーニクスアレーで
女装した男性の、まあ、何と言うか、パフォーマンスがあります。
本当にくだらないことをやるもんです。
翌日曜日は子供・ファミリーのためのカーニバルイベントがあります。
そして月曜日、ローゼンモンタークを迎えます。
  ☆おーい、寒くないのかぁっ!!☆          

"Wat kütt - dat kütt"
ローゼンモンタークのパレード終了後、
来年のカーニバルのモットーが発表されました。
このモットーに沿って、各カーニバルクラブが山車のデザインを考えます。



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