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―カーニバル2003 おまけのページ―




歴代プファルツ選帝侯と宮廷音楽



1.居城都市デュッセルドルフとヨハン・ヴィルヘルムU世

ユーリヒ・クレーヴェの相続争いが終結した後、首都デュッセルドルフを含むユーリヒ・ベルク公国は、ヴィッテルスバッハ家の傍系であるプファルツ=ノイブルクの物となった。ヴォルフガング・ヴィルヘルム公はドナウ川沿いにあったノイブルクの居城を徐々にデュッセルドルフに移し、その宮廷音楽もライン河畔に持ち込まれた。100年以上にわたって、デュッセルドルフのプファルツ侯の宮廷では、活発な音楽生活が花開き、その時代の音楽の重要な中心地となった。

ヨハン・ヴィルヘルム2世の選帝侯在位期間は、音楽史上の後期バロック時代とほぼ重なっている。 ドイツ諸国の宮廷では、規模の違いこそあれ、オペラやいろいろな種類の音楽が主要な国家行事を彩るのが通例であった。ドイツの宮廷は、明らかにフランスのベルサイユを模倣していた。一方、イタリア・オペラの上演のために途方もない金額が注がれ、こうした上演のために、イタリア人演奏家と作曲家が常に雇われていた。

選帝侯ヨハン・ヴィルヘルム2世のもとで、デュッセルドルフ宮廷の音楽は輝かしい頂点に達した。彼は市民から親しみをこめてヤン・ヴェレムと呼ばれ、その宮廷音楽と宮廷オペラは最高の芸術的水準に到達した。
父侯フィリップ・ヴィルヘルムより、当時一般的であった欧州中を巡る教養旅行に送り出されたのだが、これがデュッセルドルフの音楽活動にとって幸運であったことは明らかだ。なぜなら、ヴィーン、パリ、ロンドン、ローマといった大きな精神文化の中心地で、ヤン・ヴェレムは当時の偉大な音楽に触れたのだ。そこで得られた印象が選帝侯皇太子に影響を与え、彼は、自身の故郷の宮廷で宮廷音楽に取り組み始める。

父侯が1690年に亡くなって、ヨハン・ヴィルヘルム2世が領国支配と選帝侯位を継承してから、居城都市デュッセルドルフの音楽の盛期が始まった。選帝侯の統治時期の最盛期には、宮廷楽団は60人規模の楽士を抱えていた。

選帝侯宮廷の音楽は、欧州中からデュッセルドルフへと偉大な音楽家を引き寄せた。ここで、宮廷楽長としてセバスティアーノ・モラテーリとヨハン・フーゴー・フォン・ヴィレデラーが活動した。アゴスティーノ・ステファーニは特段音楽的な地位を得なかったが(*)、彼の活動は宮廷での音楽生活に強い刺激を与えた。1709年1月17日、彼のオペラ”タッスィローネ”が上演された折りの宮廷オペラの小冊子には、ジョルジョ・マリア・ラッパリーニとカルロ・パラヴィティーニの名が見られる。重要なヴィルトゥオーゾ弦楽器奏者としてはゲオルク・アンドレアス・クラフト、フランチェスコ・マリア・ヴェラチーニが、木管楽器奏者ではホルツバウアーとカンナビヒ家の名が挙がっている。

(*)註:専任の楽士でなく、単なる召使であっても、音楽ができれば演奏などに加わることが普通であった。

1711年は、デュッセルドルフの宮廷音楽はフランクフルト・アム・マインにおけるカール6世の皇帝選挙と戴冠一色に塗りつぶされていた。ヨハン・ヴィルヘルム2世は、帝国諸侯の筆頭として、このイベントで采配を振るった。マインツ選帝侯たっての願いで、ヨハン・ヴィルヘルムは彼の”賞賛に満てる楽団”を皇帝選挙に送った。マインツ選帝侯も他のドイツ諸侯も、このような大きな宮廷楽団を持っていなかったのだ。さまざまな資料を通じて、ヨハン・ヴィルヘルムが当時の最も重要な音楽家たちを後援し、関係を持っていたかがわかっている。レグレンツィ、ベルナバイ、コレッリといった作曲家が主要作品を献呈した。コレッリの場合、現代のコンサート・レパートリーでも欠くことのできない、コンチェルト・グロッソ6番である。

アルカンジェロ・コレッリは、この時代を代表するイタリアの作曲家で、ヨハン・ヴィルヘルムの治世とほぼ重なる1690年から1713年にかけて、音楽の後援者として名高いローマのオットボーニ枢機卿にオーケストラ指揮者として雇われていた。宮殿では、劇場、大広間、庭園などで、ありとあらゆる音楽活動が行われていたらしい。コレッリは大小の編成のすぐれた器楽作品を作曲し、同時代や直後の世代の作曲家に強く幅広い影響を与えた。

コレッリは選帝侯とひんぱんに手紙を交わす関係にあった。1712年12月3日の書簡では次のように書いている:

”…我々の世紀は、芸術に敵対していると見なされるという困難に陥ったのです。というのは、より軽い楽しみが君主をないがしろにするように見えるのです。殿下という人物の内に、安楽な芸術の国の統治者が生ずることのなきよう!そして、私は殿下につつしんでお願いいたします、崇高なる殿下の視線が私の楽譜の上にわずかなりとも投げられますよう。この楽譜があなたの栄光ある価値観を満足させるに充分でありますように。…”

♪参考♪:コレッリのコンチェルト・グロッソ4番‐第3楽章 ヴィヴァーチェ midiファイル

当時ハノーファー宮廷に仕えていた(*)ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルも、勉強と情報交換のために、何度かデュッセルドルフを訪れた。

(*)註:ヘンデルは、ハノーファー宮廷楽長の身分のままロンドンへ行き、そこで活躍の場を求めた。が、彼の主人もその後英国王位を継承、ハノーファー朝ジョージ1世としてロンドンへ移ってきた。

1711年の2度目の訪問の時には、彼は休暇の期限を越えていた。選帝侯は、1711年6月17日に、この若い作曲家に、侯の従兄弟であるハノーファーのゲオルク・ルートヴィヒ侯のための謝罪の手紙を書いてやった:

彼には来客があって、”引き止められているのだ。ある楽器と、他のことごとが、彼に告げ、その意味するところを尋ねるためにね。”

ヨハン・ヴィルヘルムの死後、ヘンデルは、ロンドンでのオペラ上演のために、デュッセルドルフのオペラ歌手を募集する目的で、もう一度ニーダーラインの居城地を訪れている。

後年の政治的そして家族的不運、また1716年に選帝侯が早く死去したため、居城を拡張するプランは頓挫することになった。ヤン・ヴェレムの後継者となった弟のカール・フィリップは、インスブルックの城にいたのだが、選帝侯国宮廷をまずハイデルベルク、次いでマンハイムとネッカー川沿いに移した。プファルツ侯家は伝統的にカトリックを信仰しており、ハイデルベルクの強いプロテスタントの党派と常に争わなければいけなかったためである。そこで彼は、死んだ兄の集めた楽士を用いて宮廷楽団を編成し、18世紀で最も有名なオーケストラが創設された。マンハイム宮廷楽団である。

最初のマンハイム・オーケストラの名簿には、33のデュッセルドルフの音楽家の姓が見られ、その中でデュッセルドルフ宮廷楽長ヨハン・フーゴー・ヴォン・ヴィルデラーと、インスブルックから移ってきたヤコブ・グレーバーがともに最初のマンハイム宮廷楽長として重要である。宮廷が引き上げるとともに、君侯の後援と文化的名声によるデュッセルドルフの夢は終わった。

カール・フィリップの後継者カール・テオドール選帝侯は1746年から47年にかけてそのニーダーラインの領地ユーリヒとベルク及び居城都市デュッセルドルフを訪れている。選帝侯は大勢の随員と共に、クリスティアン・カンナビヒ(子)、ヨハン・シュターミツといったマンハイム宮廷楽団の楽士と歌手、当時の宮廷楽長カルロ・ルイージ・ピエトラ・グルーアd.J.(数年前ににデュッセルドルフの宮廷で音楽の手ほどきをされた)を伴って旅行した。自身もフルートとチェロを演奏する選帝侯が滞在して、わずかな期間、昔日の音楽の輝きがデュッセルドルフに戻ってきたのだった。






2.啓蒙君主時代とマンハイム楽派


ドイツ語圏の音楽のアテネ。
作曲家たちの楽園。
全ドイツ、いや、全ヨーロッパを太陽のように、明るく照らす有名な宮廷。

上記の言葉は、プファルツ選帝侯の居城地マンハイムについて語られたものである。マンハイムの名声は、ヴィーンなどのように長続きしなかったが、ある時期においては、より大きく有名な音楽の中心地にまさる音楽の理想郷となっていた。

マンハイムが選帝侯国の首都であった期間は、ヨハン・ヴィルヘルムの後を継いだカール・フィリップの統治した1720年から1742年と、彼の甥であるズルツバッハ家のカール・テオドールがプファルツ選帝侯に在位した1778年までである。

カール・テオドール統治下の1777年から78年にかけて、ヴォルフガング・モーツァルトは母アンナ・マリアを伴ってマンハイム宮廷に滞在した。この30年ほど前から選帝侯は宮廷楽団の規模と質の改良に着手しており、楽団員の数は最終的に80人以上になった。宮廷楽長シュターミツ、そして後任のカンナビヒの指導のもとで、選帝侯のオーケストラは、レオポルト・モーツァルトによって「疑いなくヨーロッパ随一」と賞されるまでのものになった。ヴォルフガング・モーツァルトがマンハイム宮廷を訪れた目的のひとつは、明らかに、マンハイム宮廷で音楽家として雇用されることだったが、これは実現しなかった。しかし、この宮廷の音楽活動は、彼に多くの影響を与えた。オーケストラの中でのクラリネットの多用をモーツァルトが最初に遭遇したのはここマンハイムであり、管楽器を多用するモーツァルトの傾向は、マンハイムの影響によるところが大きい。
モーツァルトはマンハイム滞在中ヴィルトゥオーゾとしてソナタの演奏や即興演奏を行い、また、カール・テオドール侯がミュンヘンに移った後、そこで《イドメネオ》とオーボエ4重奏曲K370が初演された。

マンハイム楽派の大黒柱は、ボヘミア生まれのヨハン・シュターミツ(1717-1757)である。
マンハイムの楽団に在籍して作曲した者は、皆彼の門下であり、 これはこの学派の大きな特徴である。
クリスティアン・カンナビヒ(1731-1798)は父親もすでにマンハイムの楽団員であり、 選帝侯のフルートの先生でもあった。 カンナビヒ(子)は22歳でローマに遊学した後、 マンハイムに帰り、宮廷楽長になっている。また、後に楽団とともにミュンヘンに移り、 その子も選帝侯の楽団でヴァイオリンを弾いたので、 親子3代にわたって宮廷楽団務めをしたことになる。
その他、フランツ・クサヴァー・リヒター、イグナッツ・ホルツバウアー、カルロ・トエスキ、 アントン・フィルツといった作曲家の名が知られている。

マンハイム宮廷の音楽活動は3つの時期に分けられる。
最も重要なのは、秋と冬のシーズンで、謝肉祭の様々な祝典を含んで、聖灰水曜日の前日まで続いた。 オペラのシーズンは、11月4日の選帝侯の聖名祝日である聖カルル・ボロメウスの日の祝賀上演で始まった。
次のシーズンである4旬節には、オペラやバレエを含む劇場での全ての上演は禁止されたが、オーケストラの演奏会は催され、比較的小規模な声楽曲が演奏された。
夏と初秋のシーズンには、選帝侯とその従者は夏の離宮のあるシュヴェツィンゲンに滞在し、そこで催しが行われた。

オペラが君主の権力の象徴として存在し、芸術的要素と社会的政治的要素の融合という宮廷生活特有の特徴を示すために、祝典は壮麗を極めたが、マンハイム宮廷の音楽を特徴づけているのはオーケストラ作品である。宮廷ではアカデミーと呼ばれる演奏会が催されたが、これは近代的な意味での演奏会と異なり、トランプ遊び、会話、お茶などとともに呼び物のひとつとして、くつろいだ雰囲気の中で演奏されるものであった。

交響曲の歴史にマンハイムが明らかに貢献したことは、従来3楽章から成る構成を4楽章構成にして、交響曲の規模を拡大し、様式の多様性を高めたこと、また、これまでフォルテとピアノを対比的に用いた段階的強弱法に代わって、クレッシェンド・ディミヌエンドによる漸時的強弱法をオペラ序曲から交響曲へ導入したことである。その他の音楽的特長もふまえて、この時代マンハイムのオーケストラのために作品を書いた作曲家たちはマンハイム楽派と呼ばれる。

大規模編成のオーケストラ、訓練された演奏技法を駆使する楽団員や独奏者たちがマンハイム宮廷の名声を高めたが、それはバイエルン選帝侯が没し、カール・テオドールがその後継者としてバイエルン選帝侯となり、宮廷をミュンヘンに移したことで、突然終わりを迎えた。マンハイム楽団の一部はそのまま留まり、一部は侯にしたがってミュンヘンに移ってミュンヘン宮廷楽団と合併した。しかし、もはやミュンヘンの宮廷楽団がマンハイムと同様な名声を得ることは、なかった。