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Matona, Mia Cara

Matona, mia cara, mi follere canzon,
Cantar sotto finestra, lantze buon compagnon.
Don, don, don, diri, diri, don, don, don.

Ti prego mascoltare, che mi cantar de bon,
E mi ti foller bene, come e grecoe capon.

Comandar alle cazze, cazzar con le folcon,
Mi ti portar becazze, grasse come rognon.

Si mi non saper dire tante belle razon
Petrarcha mi non saper ne fonte d’helicon

Se ti mi foller bene, mi non esser poltroon,
Mi ficcar tutta notte urtar, urtar come monton.



マトナ・ミア・カラオルランド・ディ・ラッソについて

マトナ・ミア・カラはイタリア語の歌詞による4声のマドリガーレ(世俗の声楽曲)で、
男性が、口説き落としたい女性の家の窓の下で、思いのたけを歌うという体裁をとっています。
ところがこの男性はドイツ人、
"Madonna"と言うべきところを"Matona"となまってしまい、
不慣れなイタリア語で一生けんめい恋の歌を歌うものの
イタリア女性には全く反応がありません。
mi,mi,(俺、俺)とやたらに繰り返し、
狩の獲物を持って来てやる、と実用性を売り込んだり、
ペトラルカなどを引き合いに出して教養路線で気を引こうとしたり、
最後には「一晩中がんばるぞー」とまで言い出す始末。
歌詞は5番まであって、それぞれ無骨にギターをかき鳴らす音を表現する
ドンドンドン、ディリディリ...というリフレインをはさみますが、
各節は全く同じメロディーではなく、
歌詞の内容の変化につれ、表情に変化を持たせてあり、
第5節の「がんばるぞー」に向かって盛り上げていきます。

作曲者のオルランド・ディ・ラッソ(資料によってはラテン語読みのラッスス)(1532-1594)は
現在のベルギーのモンスに生まれ、
ヨーロッパ各地で活躍したルネサンス期のフランドル楽派最後にして最大の巨匠です。
イタリアを離れた後、ミュンヘンの宮廷にも仕えたラッソは
宗教曲、世俗曲ともにたいへん多くの作品を残しており、
マトナ・ミア・カラはその中でも最も知られた曲のひとつです。
ラッソの死後、各声部の均衡のとれたルネッサンス様式から
言葉と旋律の一致、よりドラマチックな表現へ移行し
オペラの登場とともに音楽のバロック時代を迎えることとなります。

16世紀のイタリアでは、勇猛で恐れられたドイツ人傭兵が
戦闘のない時でも相当数イタリアで生活していたらしく、
マトナ・ミア・カラに歌われた情景はイタリア人にとって日常的であったことでしょう。


02.10.04補

ルネサンスの音楽家たちII(今谷和徳著 1996年刊、東京書籍)によれば、
「マトナ・ミア・カラ」(わがいとしき君よ)の背景として、
ドイツ語のほかにフランス語やイタリア語を
自由に話すことのできる ミュンヘンの宮廷の人々が、
「マトナ・ミア・カラ」に登場する
ドイツ語訛りでイタリア語を話す兵士を、
中部ドイツや北部のルター派の人々とみなして
揶揄して楽しんだ可能性を指摘しています。
バイエルン公国の首都ミュンヘンは、宗教改革後もカトリックの勢力下にあり、
ラッソは死ぬまでの約40年間をバイエルンの宮廷音楽家として過ごします。
16世紀後半の当時、すでに楽譜の印刷出版が盛んに行われていて、
イタリア時代に作曲した作品が、
バイエルン宮廷での在職中に多く出版されたことも
彼が作曲家として一貫して高い名声を得ていたことのあかしと言えます。

ミュンヘンの中心部、ホーフブロイハウスのあるAm Platzlのごく近くに
オルランド・ディ・ラッソの名をとったOrlando str.があります。
これは、ラッソの家がホーフブロイハウスの近く、
Platzl4番地にあたる場所にあったことによります。
このホーフブロイハウスも、
ちょうどラッソがミュンヘンの宮廷で活躍していた時代に作られたものです。